第48回 認知症の人の生きている価値って?



社会参加や社会活動から遠ざかった認知症の人の生きている価値について考えてみました。なぜ、このようなテーマを取り上げたかと言いますと、「認知症になったら(人生)終り」と多くの人が思っているからです。正直なところ、私自身も認知症の臨床を通して、その患者さんを自分に置き換えた時に、同じように感じてしまうことがあります。確かに、認知症は一人で生活ができなくなる病気で、今は根治療法がありませんので「人の世話になってまで生きていたくない」と考える気持ちは理解できます。

そこで、今回のコラムでは、認知症に冒された人の生きている価値を考えてみたいと思います。認知症に冒されて多くの生活機能が失われた時の生きている価値、生きている意味、目的について、大変重いテーマですが、考えてみたいと思います。
この記事の執筆
今井幸充先生
医療法人社団翠会 和光病院院長 / 日本認知症ケア学会 元理事長
今井幸充先生
この記事の目次
  1. 生きていることの価値とは
  2. ある認知症の人の臨終
  3. 母の生きている価値
  4. 認知症の人が生きていることの価値
  5. ユッキー先生のアドバイス

生きていることの価値とは

「人の価値」の評価は、一般的に社会での活躍や存在感などで決まることが多いように思います。その人がどのようや役割を持ち、社会や個人に如何に貢献しているかを周囲が評価し、その人の価値を決めているのではないでしょうか。すなわち社会活動、社会貢献が人の価値を評価する重要な要因の一つになっていると言えます。

ここでの社会とは、地域であったり、家庭であったり、さまざまな大きさの集団を指し、貢献とは、その人の社会的業績のみならず、周囲の人や社会への良い意味での影響の大きさではないでしょうか。そうなると「人の価値」は、社会貢献に深く関連しますが、人が生きていることの価値とは、この社会貢献と多少異なるようにも思います。無論、社会貢献の評価は、その人の毎日の生活の「生きがい」にもなり、その人自身が「生きていてよかった」との喜びにもつながりますので、生きていることの価値でもあります。

では、人が生きていることの価値、とは何でしょうか。内村鑑三の著書「後世への最大遺物」の中で、人の生きゆく姿として「高尚なる偉大な精神」を養うことの大切さを説いています。それは、生きている間に、その人が存在していた証を残すことに尽力すべきであるが、誰もが後世に価値あるものを残せるものではない。しかし、誰もが残せる偉大なる遺物は、その人の高尚なる精神である、と述べています。すなわち、「人の価値」とは、社会貢献のみならず、その人の内界に占める高尚なる精神も「人の価値」に繋がるものと解釈できます。そこで「高尚なる精神」とはどのような精神の持ち主なのか、適切な言葉が見つかりませんが、知、技、言行などすべての行いが上品な人のことでしょうか。

「人の価値」とは、おそらく、本人が感じたり、決めたりするものではなく、他者の評価で、周囲の人間や社会との関係性によっても異なるもののように思います。

ある認知症の人の臨終

84歳男性、6年前にアルツハイマー型認知症と診断された比較的重度の認知症の患者さんで79歳の妻が自宅で世話をしていました。ある日、発熱のため受診したところ、肺炎と診断されて、総合病院に入院することになりました。そこでは、点滴と栄養のための鼻からの胃チューブ、口には酸素マスクが取り付けられました。しかし、認知症の人は自己抜去してしまう恐れがある、との主治医からの説明で、身体拘束が施されました。その姿を妻が見て、今の夫の生きている価値とは何か、自問自答したのでした。

妻の答えは、身体拘束の中止を求めることでした。妻は、もし夫に認知症がなかったら、おそらく拘束はなされないだろう。夫の余命を考えると拘束もやむをえないと思うが、その夫の目はいつも「これを外してくれ」と叫んでいるようだ。この人の生きている価値は何だろうか。少なくとも、今の姿には、生きている価値はない、と思い悩んだそうです。しかし、担当の医師は、拘束を外すことを拒み、拘束しないで治療はできないと、断言され、やむを得ず入院の継続のために拘束の続行を申し出たのでした。

その後、様態が悪化し、常時閉眼し、呼びかけにも返事しない状態に陥ったことから、担当医師から妻に終末期を告知されました。そこで、緩和を目的にした転院の相談が当院にあり、それを承諾いたしました。搬送中の急変も心配したのですが、妻の熱意で、それもなく、無事入院となりました。

入院後は、延命のための処置として水分補給と酸素吸引を行い、その他の治療は家族との相談の上、行いませんでした。身体拘束から解放されたせいか、穏やかな表情に見えました。そのうち家族の面会時には、目を開き、微笑みを浮かべるようになりました。看護師の介助で、経口からトロミのある水分を差し出すと、それを自身の力で飲み込むことができたので、毎日少しずつ栄養剤の量を増やしながら、無理せずに、経口摂取を試みました。2週間後には、覚醒時間も増えて呼びかけに反応するようになりました。孫が来院した際には、ベッドサイドで孫が唄う歌に合わせて唇を動かしていた、と家人から歓びの報告を受けました。

妻は、夫が好きだったお風呂に入れてあげたい、と遠慮がちに担当の看護師に耳打ちしました。そこで、状態を看て、機械浴ですが、入浴を決行しました。それからしばらくはこのような状況が続きましたが、徐々に覚醒時間が短くなり、やがて全員の家族に見守られながら息を引き取っていかれました。その時の家族の皆さんには、悲しみよりも「とってもよかった」とむしろ歓びの感情が湧き上がっていたようです。妻は「自分もお父さんのように一生を終わりたいですね」と私に最後の言葉を残して、ご遺体の一緒に自宅に帰っていきました。

母の生きている価値

私の母は、今グループホームにお世話になっています。2年前に大腿骨骨折して、今は車椅子の生活で、食事やトイレ、着替えなど、全てお世話が必要で、一人では何もできません。月に何度か、父を連れて面会に行きますが、その都度、私のことを本人の弟と思っているようです。

そんな母と会うと、私はいろいろな昔のことを思い出します。昔の母を偲ばれるのがその肉声で、歳をとり認知症になっても肉声は変わりません。母が認知症を発症し、骨折して入院するまで父が世話していました。骨折後は家の近くのグループホームにお願いしましたので、特に在宅のケアで私が困ることはありませんでした。

そんな今の母の生きている目的、意味は、多分家に帰ることでしょう。必ず口にする言葉が「さあ、帰ろうか」です。無論、彼女自身は、今の状況を何もわかっていませんが、ここが自分の家でなく、いずれ帰る家があると信じ、その日を待ち望んでいます。恐らく母の望みは、父と私が月に何回か顔を見ることでもなければ、美味しいものを食べること、好きな民謡を踊ることでもありません。母には、「今は足が悪くて歩けないから、ここに居てほしい」と懇願すると、「みんなが困るなぁ、分かった」と言いながら、その矢先「さぁ、帰ろか」と帰る支度をする始末です。しかし、近い将来、家に帰れるまで我慢しようと、勝手な解釈ですが、母は希望を抱いているように見えます。

母の生きていることの価値は、家に帰れる日を待つことのように思います。母には、社会的な価値もなければ、知恵や品格に象徴される高尚な精神をもって生活する力もありません。私にとって、母が生きていることの価値は、その存在です。母の前では、私の歴史の源を感じ、この人の子供であることを感じます。その母の死は、ごく近いうちに来るでしょうが、そこにも特別な感情はありません。それこそ「あるがまま」に受け止めてられるでしょう

認知症の人が生きていることの価値

「認知症の人が生きていることの価値」この言葉の中には、道徳的、宗教的、社会的な解釈が包含されるべきかもしれません。しかし、ここでは認知症でない人の思い、家族の思(想)い、そして本人も思いを考えてみます。

冒頭で申し上げました「認知症になってまで生きていたくない」と考えるのは、認知症の人の生きている価値や人間としての存在を否定するものではありません。認知症でない人が、認知症という病気を想像して、勝手に決め込んでしまう結果です。「認知症になったら終わり」との思いの中には、認知症になると生きる意味や目的を失ってしまい、生きる気力を失う、人生終わりと考えるからでしょう。

私の母の生きる意味や目的を私が勝手に解釈すると、家に帰って昔の様に家族と一緒に生活することのようです。それが叶うまでグループホームで我慢するのだ、と思っているようです。それは、将来的に叶えられない、ちょっと悲しい生きる意味であり、目的のように思います。しかし、そこに彼女なりの生きる気力を見出しているのかもしれません。

私たちが考える人が生きていく意味と目的は、社会に価値ある人間になる、大切な人のために頑張る、といった他者の存在が念頭にあります。母の場合は、今の願いが叶う事が大切で、父や私への配慮などないように見えます。しかし、母の脳の中に、父や私の存在があり、それが彼女の生きる気力につながっているようにも思います。

「認知症になったら終わり」の意味には、思うように生活できなくなることの懸念や不安が含まれていますが、母の事を考えると、母は妻として、また母としての役割を認識しています。その勤めが果たせなくなった今でも、いつかできるようになる、と信じているように思います。私にとっては、目の前に母が存在することで、自身が奮起させられるものを感じますので、母の存在の価値を認めています。

終末期に転院してきた男性の患者さんも、身体拘束を受け、ただ強制的に生かされていると感じた時に生きる気力を失ったようです。しかし、拘束が取れて、解放された時に見た妻の安心した表情や孫の歌声で再び生きる気力が漲ったのでしょう。そして自ら水分を口から取り、栄養を取ることができたのかもしれません。やはり彼にも生きる意味、目的を感じたのでしょう。

認知症の人の生きていることの価値とは、彼らの生きている目的や意味、あるいはその懸念を感じた時に、その価値の尊さに周囲が気づくのではないでしょうか。

ユッキー先生のアドバイス

「認知症の人が生きている価値」、是非とも考えてみてください。生きている価値、生きている意味、目的は認知症になったから言って決して失われるものではありません。それは、認知症に罹っていない私たちが勝手に想像することです。認知症の人でも、身体を拘束されて、何にも感じないわけではありません。ここに紹介した認知症の男性の最後に見せた微笑みは忘れられませんし、その時の家族の満足に満ちた表情も忘れられません。私が、母のもとを去る時のあの悲しそうな表情も目に焼き付いています。

「認知症になったら人生終わり」という考えを否定するわけではありませんが、それは認知症を罹っていない我々が感じることで、認知症の人は、自身の感じていることや今生きている価値を私たちに伝えられないだけで、しっかり生きようとしているのです。

次回第49回のコラムでは、認知症の人の生きている価値を私たちが感じとるには、どのような配慮が必要か考えてみます。

(2017年1月18日)



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