第37回 認知症の人の世界~戸惑いと覚悟~
- 第36回は、井坂淑子さんの日記から、自身の脳が壊れて行く、自分が失われていく心境をご紹介しました。そこには、来る日の不安や恐怖が表現されていました。
それだけではありません。むしろ諦めのような、じたばたしても仕方ない、といった達観した心境とも思える表現もありました。いずれにしても彼女の日記には、読んでいる私自身が異次元の世界に引き込まれる不思議な感覚を覚えたのでした。
第37回では、さらに時が経過していく状況の中で、淑子さんの戸惑いと覚悟の叫びをご紹介しましょう。
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ある老婦人のその後
享年85歳の井坂淑子さん(仮名)は、X+2年6月に癌で他界されましたが、その2年前に書き残した日記をご紹介します。淑子さんはX年2月に大学病院でアルツハイマー病と診断されました。妹の美奈子さん(仮名)と2人暮らしで、美奈子さんの娘さんの後藤幸子さん(58歳)(仮名)が、普段の2人の生活を見守ってきました。
ここで、ご家族のご承諾を得て淑子さんの日記を公開いたします。文章は日記に書かれたそのままを書き写したものです。
〔X年10月13日〕
カレンダーを見ていたら 10月5日予約とあり 8:40~9:40となっていた。大丈夫だったのだろうか、心配している。
〔X年10月14日〕
午前中美奈子さんと(買い物の?)計算をする。此の頃今の事を忘れる。真に口惜しい。明日は15日。早く寝なくては目が覚めないと思う。
〔X年10月15日〕
赤飯など作って神様に供える。
〔X年10月17日〕晴
終日多忙。メグ(飼い猫)はどうしているのだろうか?きっと心配しているだろう。早く迎えに行ってやりたい気持。
〔X年10月28日〕
毎日多忙で、とても疲れる。朝から次々と用があり、夜2階のMy roomに戻ると11時5分前くらい。全く次々と用がある、眠りたい。
〔X年10月29日〕
昨夜からゆうべにかけてメグの調子思わしくなく。メグを入院させた病院に近い幸さん宅にとまらせてもらい様子をみるもとうとう他界してしまった。御寺さんにほうむって帰宅をするも、かわいそうで涙が出てしまうのをがまんするのもつらかった。可愛かったメグちゃん、ゆっくりおやすみ。
幸さんに色々支払いある様子。御支払忘れぬ様にすること。
〔X年11月3日〕
文化の日。このところいろいろあって、頭が混乱してしまう。昨日○○医院予約あり。夕方伺う。私も遠からず呆けが深刻になりそうで心配。どうしよう?そう!なる様にしかならない。メグにもっとやさしくしてやればよかったなどと思ったり、色々な猫の頃を思い出したりして涙があふれて来たりする。「メグは本当にいい猫ちゃんだったよ ゆっくりおやすみよ」
〔X年11月7日〕
此の数日、私は変で自分を信じられない。夕方幸さんと美奈子さんと3人で夕食を寿司屋で食べる。全く私はおかしい。幸さんに支払いさせて帰って来てしまって今度あった時返さなくてはと私はもう外出はできないかも?
悲しくて、ねられないかも知れない。
〔X年11月8日〕晴時々曇
そう思いながらねてしまう私。
何だか日々呆けていく自分を平気でみている私は恐ろしい。
お酒でも飲みたくても、ない。
〔X年11月9日〕晴時々曇
精神的にまいっているのに冷静そうに装うのはつらい。1時を過ぎたのに眠れない。色々考えていると悲しくなって涙が出そうになるも我慢するしかない。
平和で有難いと思っているのですがメグを思い出すとついかわいそうになって・・・
〔X年11月12日〕
少々落ち着いて来たものの、何か物足りない気がする。テレビは5,6,7,8と色々変わったりして訳りにくい(分かりにくい)。全くゆるせない。早寝しましょう。もう少し訳りやすく説明してからちゃんとせよ。
〔X年11月23日〕
典型的な秋日和。
始終何かと多用。頭の方は今一つピリット来ない。一日ボットの連続。
〔X年11月24日〕晴
秋晴れとよぶのでしょうか?
今日は冷静の様で何か不安な私。涙が何故か湧いてくる。メグの事を思い出して。私に叱られて心配そうだった顔等思い出して!
幸せだと思っただろうか?色々考えて、日記は悲しくなってかけません。ゴメン、メグ。
ゆっくりおやすみ。
〔X年11月27日〕
美奈子さんに色々買物して来てもらい大助かり。
夜1時頃就寝する。明日アサ早いので今晩は早くねないと目覚めが悪いと大変、おやすみ。
〔X年12月5日〕
血圧の管理帳などつけて一息つくと10時を10分もすぎていていた。ぼちぼち就寝でもと思う。
今日は何をしたのだろうか?家事以外の仕事も他にないのに。何故か、あたま働き悪く、そろそろ頭も体も休めてやりましょう。
〔年月日 不明〕
銀行貯金をおろすため、鍵その他がどこに入っているか知りたい。
通帳、印、その他・・・
ここで日記は終わっています。
そして、井坂淑子さんは、X+2年6月盲腸癌で他界されました。
戸惑いと覚悟
ご紹介した淑子さんの日記は、第36回の日記から6カ月が過ぎたものでした。内容は、その日の出来事を綴った日記と言うよりも、彼女のその時の感情を書き留めたものが主です。しかし、そこに書かれている表現は、非常に淡白なもので、文字数も少なく、意味不明な箇所もあります。
このように活字にすると容易に読めますが、実際の日記に書かれた文字は、2年前の5月ごろに比較すると、非常に乱れ、読み取ることすら困難なものもありました。そこには、几帳面に毎日の出来事を書きとめ、またその時の自身の感情を達筆な字で表現していた2年前とは明らかに異なる淑子さんでした。
10月3日の受診予約をカレンダーで見て、受診したかどうか忘れて、その状況に当惑している様子が手に取るようにわかります。日々のもの忘れが、残念で、いまいましく思う様を「口惜しい」と表現しています。
そんな自分の混乱に戸迷い、自分自身が信じられず、そして毎日バタバタと動き回って、時間に振り回されている様子がリアルに描かれています。それは、壊れて行く自分と必死に闘っている姿であり、その一方で収拾が付かない自身のさまを表現しているのかもしれません。
その反面、「なるようにしかならない」、「日々呆けて行く自分を平気でみている私は恐ろしい」「悲しくなって涙が出そうになるも我慢するしかない」と居直り、諦めの境地も覗かせています。
認知症の人の世界
井坂淑子さんの日記を通して、認知症に冒されていく人の心の動を垣間見ることができました。得体も知れない大きな力が徐々に忍びより、自分自身が壊されていく恐怖と不安は、想像を絶するものなのでしょう。
認知症の人が自身の世界を執筆したことで日本でも有名なクリスティーン・ボーデン氏の著書『私は誰になっていくの?-アルツハイマー病者から見た世界』の英文のタイトルは、「Who will be when I die(私が死ぬとき、私は誰になっていくの)」です。
クリスティーンさんは2004年6月に京都で開催されました国際アルツハイマー病会議に招待され、認知症に冒された思いを伝え、そのことが当時のマスコミに大きく取り上げられました。
また、我が国の認知症患者さんの一人も会議の壇上に立ち、その心境をかたり、支援を訴えました。この衝撃的なスピーチがきっかけで、認知症の人の世界を理解し、彼らへのケアのあり方を見直す上で『その人を中心に置くケア』の重要性が専門職の間で強調されるようになました。その時から、認知症ケアに新しい旋風を巻き起こしたのです。
あれから10年以上経った現状で、果たして「認知症の人の心を知って、その人の生き方に沿ったケア」が世の中でどれほど実現されているのでしょうか。
井坂淑子さんの日記は、当然のことながら、彼女が自身の苦しみや自身の世界を他者に知って欲しい思いから書き上げたものではありません。
まさしく、彼女自身の世界の中での呟きであり、自問であり、葛藤でもあります。その言葉の中には、飾り言葉はありません。この日記に書かれている言葉や使われている言葉には全く手を加えていません。その言葉一つ一つを読者自身の思いで感じとって頂きたいと思います。
(画像はイメージです)
ユッキー先生のアドバイス
本音を言いますと、この井坂淑子さんが綴った日記を拝見した時に、私自身、このコラムを書き上げる上で、色々な思いが頭に浮かびました。これまでの臨床で自分の心の中に描いていた認知症の人の世界を読者にうまく伝えることができる、と傲慢にも思ったのでした。
しかし、この日記から認知症の人の世界を私の言葉で解説しようとすればするほど、その世界は貧弱で、表面的な、そしてありきたり言葉でしか表現できなかったのです。何度も書き直したのですが、書けば書くほど、この日記の意味する本質から遠ざかる焦燥に駆られました。
そんな折に日記を提供していただいた姪の後藤幸子さんにお会いする機会を得ました。彼女に淑子さんのその時の心情を是非お聞かせ願いたいと懇願したのですが、その時幸子さんは「うまい言葉で言い表せません。言ってしまえば、それは、叔母ちゃんの気持ちでない私の思いになってしまいそうです。どうか先生自身でお考えください」。
この言葉に、私自身目が覚めた思いでした。私のような表現力に乏しいものが、淑子さんのあるがままの世界を私の言葉で伝えることは不可能なことに気づきました。
この日記を通して、読者の方一人ひとりの思いで、認知症の人の世界を感じ取って頂ければ、このコラムの目的は達せられたように思います。
(2016年1月14日)
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